なないろの世界

日々の中で感じたこと。気持ちとか、出来事とか。つらつら書き綴っています。自分でも気づかないうちに、きっと今日も、世界がなないろに染まる。

Memories 〜陸上③〜

そろそろ、この話題を閉めたいところですね。

本当なら1話完結型で次のテーマに行く予定だったのに、何故か③まで続くという。

 

もう前置きはいいとして書きたいことを書きます。

 

 

 

自分の陸上競技生活は、中学から合わせたら6年間ですが、そのほとんどが怪我との闘いでした。

生まれつき、膝にある半月板の形が大きいという、「円盤型半月板損傷」だったことがわかったのが、小学6年生のとき。

そのときは、走るのを止めれば、膝に溜まった水も抜けたし、ロッキングも外れたし、痛みも引いた。

 

でも、中学生になり部活が始まって、練習量が多くなればなるほど、回復に時間がかかるようになって、痛みがきたら休む、なんてことをしてたらろくに走れないほど、症状が悪くなってしまったんです。

 

 

 

これはもう、手術をしない限り、陸上競技は続けられない。

 

 

 

私の選択は、手術をして、円盤型の半月板を、本来の形に戻す、つまり部分切除してもらうことでした。

 

 

満月版を、半月板へ。

 

 

…なんてふざけられたのは最初で、全治半年が目標。

なかなかしんどい日々でした。

走れないし歩くのもままならないし、みんなには心配をかけてしまう。

でも、幸にしてしっかり傷も治り、リハビリも無事に終わり、中学生での陸上生活は、強い選手とは言えなかったけど、満足を感じる結果で終わることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校生活での、陸上。

 

練習量が雲泥の差。

 

入部して1ヶ月も経たないうちに、わたしは、ずっと忘れていた嫌な痛みと腫れに付きまとわれるようになりました。

 

 

ちょっとした段差で、膝の抜ける感覚。

左足をついた時に、一瞬走る電撃のようなしびれ。

伸び切らない膝。

屈伸した時に感じる異様な圧迫感。

 

 

怖かったし、悔しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんで私がこんな苦しい思いしなきゃいけないの?

なんで私の膝だけこんなに変なの?

どうして私じゃなきゃダメなの?

走りたくない人なんていっぱいいるじゃん。

私じゃなくていいじゃん。

少なくとも、膝じゃなくていいじゃん。

 

 

 

 

 

いろんなものに理由を探して、悔しくて、情けなくて。

 

 

苦しい練習は、100%の思いで挑んで走り切るから、意味のあるものになる。

きつくても、全力で走るから、意味のあるものになる。

でも私は、最初から、膝が痛くて思いきり走れなくて、だから、苦しくてつらいのが、練習がきついからなのか、膝が痛いからなのか、理性で判断できない。

逃げるように負荷を落とさざるを得ない。

次のメニューを走ったら、もっと悪化するかもしれない、だからやめたほうがいいかもしれない。

 

 

 

本当に純粋にそれだけ?

練習から逃げようとしてない?

 

 

毎日毎日、そんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 

先生は、私の状態をすごく気にしてくださって、無理はさせないけど、容赦なくメニューを叩きつけてくれた。

私を特別扱いしないで、見捨てることもしないで、同じように指導してくれるのが本当に嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日の練習日誌のコメントに、こんな言葉があった。

 

 

 

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「力がついている 確実に」

 

 

 

 

嬉しくて。

 

嬉しくて嬉しくて嬉しくて。

 

 

先生にとったらもしかしたら、私への気休めだったのかもしれない。

 

考えすぎだ、ってよく言われてたし。

 

 

 

でも、この一言で、私は救われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校1年の時、私は人生で初めて、自分の力で、自分の種目で、県大会を決めました。

 

 

前日の1500mでは、1人差で県大会を逃して、ものすごく反省した。

仲間や友達に色々な言葉をかけてもらったけど、自分を奮い立たせたのは、ある野球部の子の言葉。

 

 

「敵は自分の中にある」

 

 

ハッとした。

 

苦しい時のその敵はその苦しさに勝てない自分だ。

 

 

 

迎えた、800mの決勝。

今までで1番、最初からとばした。そして耐えた。強気で行くしかないと思った。

 

 

中部6位。自己ベスト更新。県大会出場。

 

 

それはもう、泣いた。

やっと掴んだ。

ついに掴んだ。

 

 

ボロ泣きでした。

陸上のことでしか、高校では泣いたことないけど、それくらい、陸上で泣くことっていっぱいあって。

でもこの時の涙は、怖さとか、勇気とか、覚悟とか、喜びとか、本当にいろんなものがぐちゃぐちゃになって溢れてきて、忘れないと思う。

 

 

 

 

 

そして、迎えた県大会。

 

自己ベスト更新。

初めて、2分30秒を切った。

 

 

 

 

中学の時から、ずっとずっと夢だった。

30秒の壁は、破れなくて。

先生に、「良かったな」って肩を叩いてもらった。

認めてもらえた。

嬉しかった。

ここからだな、って自分で思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも。

 

わたしは、その記録を、その後2年間で超えることは、できなかった。

 

 

駅伝、そして冬季練を超えて、絶対に力がついた自信があり、春の記録会を心待ちにしていたある日。

 

突然訪れた休校。

 

あと2ヶ月で会えなくなってしまう、先輩との練習時間が奪われて。

大好きな仲間との練習時間が奪われて。

 

1人で走る寂しさ。

気持ちの入らなさ。

 

心も体も鈍っていく感覚に、練習を再開する日がだんだん怖くなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

どうやって立て直したのかな、今はもうはっきりと思い出せない。

 

 

再開した学校で、私を迎えたのは、まず、後輩たちの存在。

先輩2人、同級生3人で過ごしていた女子の部室に、6人の後輩が入ってきたことが、最初はとても怖かった。

自分たちのテリトリーに入ってこないで、って思って、受け入れられなかった時もあった。

 

 

でもそんなとき、思い出したのは、1年前の先輩の姿。

 

今では毎日朝から夕方まで練習を共にする2人の先輩たちは、1年前、そこまで友好的ではなくて。

特に1人は、信じられないほどそっけなかったから、わたしは嫌われてる、迎え入れてもらえてない、って思って、結構悲しかったのを、すごく覚えている。

 

 

だけど、夏の合宿が始まる頃には、完全に打ち解けて毎日部室で練習終わりの狂ったテンションで変顔大会をするくらいになってた。

 

 

だから。

この子たちを受け入れることがいつかできるのかな、なんて。

 

 

 

 

わりと早くに、うちとけましたね。

 

 

 

 

長くなっちゃうから書かないけど、後輩との思い出は、ホントにたくさんある。

 

いろんな後輩だった。

個性豊かで、みんな可愛くて、でも一生懸命で、自分とは全然違うけど、わたしは誰のこともちっとも嫌じゃなかった。

後輩6人同士が、お互いを大好きなのもわかっていたから、それも微笑ましくて好きだった。

 

すごい選手なのに私を慕って毎日メニューを相談してくる子がいて、

笑い声がわたしのめちゃくちゃツボな子がいて、

毎日毎日甘いものをよくもまぁそんなに食べるのにほっそいものだわ、羨ましいも憎いも通り越していっそ気持ちいい、なんていう子がいて、

可愛い顔して部室に戻ると眼鏡で毒舌を吐きまくる、私のかつての先輩の妹ちゃんがいて、

大人しそうなんだけど人一倍お洒落で、でもポニーテールがすぐ落ちちゃうからからかわれる子がいて、

 

そしてなにより私がお世話になったのは、マネージャーさん。

 

マネージャーさんのLちゃんにはとってもとっても力をもらった。

 

 

 

後輩より遅い先輩なんてさ、突き放されたりがっかりされたり、見放されたりしたっていいと思うの。

 

怪我でまともに練習できない自分だったから、呆れられてるかもなとか。

 

 

でも。

走れないから用具出ししてる私を、

隅で体幹レーニングしてる私を、

いつまでもグランドで待ってくれてたのが、Lちゃんだったんです。

 

設定タイムをちゃんと守って走れた時とか、速かった時とか、ニコニコで「スゴい速かったですーーーー!」って褒めてくれた。

 

毎日、おつかれさまです、って楽しそうに言ってくれた。

 

Lちゃんいなかったら私は立ち直れてなかったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また話が大きく逸れましたが、そんなこんなで、後輩との出会いがある中で、私は休校期間開けをなんとか乗り切ったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

たくさん語った割にはまとめが雑ーーーーっ

 

 

 

 

 

その年のインターハイはコロナ禍でなくなってしまったけど、代替大会が開かれて、引退してしまった3年生もいたけど、私はその時も県大会を決めたんだったな。

 

あのときは、県に行けたことも嬉しかったけど、一度折れた心がもう一度ここまで走れるようになったことが嬉しくて嬉しくて、泣いた。

 

覚えてる。

 

中学の時からずっとずっと私の前を走っていた双子の同級生がいて、その2人の前で泣き崩れた。

2人が、頑張ったね、ここからだね、って言ってくれた。

 

 

 

 

 

 

そしてそのまま、スタンド裏の雨天走路で、Kに会って。

 

 

 

ダーーーッ、って、考える間も無く走り寄って。

 

 

 

 

 

 

 

県決まった!!!!

 

 

 

 

 

 

そしたら。

 

 

 

 

 

よっしゃーーーーーー!

 

 

 

 

 

満面の笑みで、ガッツポーズして、一緒に喜んでくれた。

 

 

1年ぶりの、ハイタッチをした。

 

 

 

 

 

本人に言ったことないけど、めちゃくちゃ嬉しかった。

先輩にちょっと冷やかされたけどそんなのどうでもいいくらい嬉しかった。

認めてもらえたと思った。

 

 

その数週間前に、初めてKが呼び捨てで名前を呼んでくれて、それがもう舞い上がるほど嬉しかったんだよね。

 

Kだけじゃない、今までKちゃんとIくらいしか、呼び捨ててくれなかったのに、続々と陸部メンが私の名前を呼んでくれるようになって。

 

 

ホントにホントに嬉しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

まーたー話が逸れたーーーー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜中に書くブログって謎の夜テンで読みにくいですね。

 

拙い文章を読んでくれてありがとうございます。

 

わたしは楽しく書いてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だけどそこからは、3年の5月の中部予選まで、わたしはずっと、思い切り走れない日が続いた。

18年間生きてきた中で、1番走れない1年間だった。

 

 

これはもう、間違いなく、人生で1番しんどい時間だった。

 

 

 

夏休み始め、休校で鈍った体をマッハで立て直して乗り切った大会続きの7月の反動が、左膝を襲った。

 

 

 

 

 

 

走行距離0mの、8月1周目。

 

Kちゃんが上裸で走るほど、暑くて死にそうな合宿練を、その苦しさを何も味わうことなくグランドの隅で過ごす。

 

 

 

だけど苦しかった。

 

 

 

苦しさは思い出せないけど苦しかったことは思い出せる。

 

 

 

 

 

 

 

迎えた新人戦。

 

1500mを諦めて1本に絞った800m。

 

0.06秒で予選落ち。

 

 

 

 

 

初めて、Y希の前で泣く。

 

 

嬉しさじゃなくて、悔しさで。

 

 

 

 

静かに泣いたと、自分でも思う。

 

Y希は、無駄なことは喋らずに、でも黙ることなく、わたしを存分に泣かせてくれた。

 

 

この夏から、彼はわたしにとって、仲間兼カウンセラーになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終日、マイルリレー。

 

Mさん、Mちゃん、私、後輩のエースN。

 

余談だけどNとわたしの話をすると間違いなく夜が明けるので後日改めて。

 

 

 

 

自分が県を走れるとしたら、このリレーだけ。

 

わたしを走らせるために、みんなが、全てを出し尽くしてくれた。

 

 

県大会を決める、それも、かなりの好成績で。

 

 

書くまでもないけど、文字通り泣き崩れた。

 

 

 

走るのと、泣くのって、セットなのかな?

 

 

 

 

でも本当に泣いたのはその日じゃなくて、次の日、学校で、先生からの、わたしの試合の反省へのコメントを読んだ時だった。

 

 

今までにない文字数。

いつもなら15〜20字で終わるコメントが、B5ノート5行分あった。

 

昼休みに反省ノートを取りに行って、教室に戻る。

教室で開いた瞬間、コメントの量を見ただけで涙が出てきて、駐輪場にダッシュ

思う存分泣いて、グシャグシャの顔面でとりあえずトイレにこもって、昼休み終了寸前に教室に飛び込んだから、お弁当を食べ損ねた。

 

その日は朝から、他の先生から、「新人戦惜しかったねー」とか声をかけられてもうすでに精神はボロボロで、クラスメイトにも色々聞かれるし、学校の友達の前でなんか絶対泣くもんかと思ってた分、1人になったら歯止めが効かなかったなー。。。

 

 

よく泣いた数日間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして考えると、本当にいろんなことがあったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも自分の陸上人生の中で1番の壁は、高校2年の冬から患った、右足第4中足骨の疲労骨折。

 

 

 

 

 

 

 

 

1ヶ月、2ヶ月、これは本当に何も走れなくなりました。

 

 

いや、わたしは、陸上部なのに全然走ってなくないか?

 

走れなかった時のことを書いてるからこうなるのか。

 

 

 

1番自分的にしんどかったのは、冬季練の1日練が何もできなかったことかな。

 

強くなる理由が、見つからなかった。

 

 

 

 

結局あの時期は、陸ではなく、水の中でトレーニングしてました。

あとはバイク漕いだり。

 

 

2月末に治ったと思ったら、またぶり返して、結局、3年になっても、走れなかった。

走れないまま、インターハイ予選を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにしてたんだろうなって。

高校で全部出し切ろうと思って、膝が痛いのなんてずっと覚悟してたから、ちょっとくらい水が溜まっても、動かなくても、痛くても、物理的に走れるなら走ろうって決めて練習してたはずなのに。

最後に苦しむのはずっと付き合ってきた膝じゃなくて、全然違う、ポッと出の中足骨、しかも疲労骨折かよ、って。

疲労骨折するほど、披露する練習したか?自分。

 

 

なんで私よ。

長距離だけは、休んでる間かマイナスにしかならないのよ。

走った距離が全てなのよ。

 

いっぱいいっぱい書いてた、日記に。

心が腐ってた。自分ではわからないほどはっきりと腐ってた。

 

 

 

腐って腐って腐って、でも仲間のそばにいたいから。逃げられなかった、逃げたかったけど。

 

 

強くなる理由がない自分だったけど、陸上部を離れたくなかったし、最後の最後まで可能性を信じてたかったんだ、きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インハイ予選は自分でもびっくりするほどあっさり終わって、だけど悔しさはそこにもうなくて。

 

 

 

私が見てたのはそこじゃなかった。

 

 

 

 

ずっと、決めてたような気がしてた。

 

 

 

 

 

高校駅伝

 

わたしは、11月まで引退しないことを選びました。

 

 

 

 

朝練だけだけど、走ることをもう少し続けた。

けりをつけなきゃいけないと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなに大層なものじゃないのかもしれない。

 

ただ、悔しかったんです。きっとそれだけ。

 

怪我ばっかり、走れないことが多かった自分。

いい結果が出なかったことを、練習量が足りないから仕方ないんだって、心のどこかで諦めてる自分。

全部出し切れなかった、やり切れなかった、それを抱えたまこれから生きる自分。

 

 

 

 

このままでいいわけない。

悔しかったから、まだ走ろうと思った。

 

 

そこからの半年間は、信じられないくらい調子が良かった。

 

 

練習量が半分になった分、質が上がってダメージも減って、量は少ないけどわたしにはちょうど良かったのかな。

 

 

中1から陸上やってきたけど、1度も休むことなく半年間練習し続けられたのは、この時が初めてだった。

 

 

 

 

 

 

それに気づいたときは凄く嬉しかったなぁ……

 

 

 

 

 

それができたのは、もちろん練習量のおかげでもあるけど、引退したはずなのにわたしの朝練に付き合ってくれた、MさんとKの存在、そして、後輩たち。

 

支えてくれるみんなのおかげで、最後まで走り続けることができた。

 

 

 

 

 

純粋に楽しかった。

凄く楽しかった。

 

めちゃくちゃしんどかった。

死ぬと思った。

 

 

矛盾してるけど、本当。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後の1週間は、なんだかホワホワしていて、1年の時、絶対にこのキツい朝練生活が終わる日なんか来ないって思ってたのに、いよいよやってくる…っていう感慨深さがすごくて。

 

 

今でもちょっと信じられないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駅伝は、合同チームを組むことなく、陸部女子5人で走ることができた。

 

2年間、合同チームを組んできたわたしにとって、それは夢のような話で。

 

幸せだった。

 

 

 

 

 

本番は、そりゃ、死ぬほどきつかったけど。

タイムは実はあんまり良くなかったんだけど。

 

1区、飛び出して、オーバーペースになりながらも最長区間をつないでくれた、エースのN。

お互いがお互いの大ファン。

 

3区、わたしが顔面蒼白でタスキを持って走ってくるのを、すごぉぉおぉぉぉおぉおぉぉく、嫌そーーーーーな顔で中継で待っててくれた、S子ちゃん。わたしにはそんなS子ちゃんでも神に見えた。あんなに嫌がってたのに、坂登ってくれてありがとう。

 

4区、短距離(幅跳び)なのに、長距離が速いからってだけで、突如駆り出された1年のSちゃん。でもめちゃくちゃ速かった。

 

5区、コース一周、プレッシャーの中、4人の汗と思いを吸った重い重いタスキをゴールに繋げてくれた、1年の直属の後輩、Rちゃん。

 

 

 

 

みんなのおかげでわたしは最後までやりきれたよ。

 

 

本当に本当に、感謝してる。

 

幸せだと思う。

 

 

やりきったんだよね。とても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして振り返ると、なかなか壮絶だったんですよね。わたしの陸上生活も。

 

特別強い選手だったわけじゃないから、有名でもなんでもないんですけど。

でも胸を張って、全力で走ってきました、って、今なら言える気がする。

 

陸上を通して、出逢った、仲間、先輩、後輩、先生、コーチ、監督、すべての人たち。

 

誰もがこの競技に魅せられて、ここに集まって来たのかなって。

陸上競技、長距離、その魅力を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うわーーーー、書ききった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

本当はまだまだ書いてないこと山ほどあるんだけど、Memoriesとして今残さなきゃいけない最低限は書けたんじゃないかなぁ。

 

誤字脱字はわかりません。笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これから大学生になって、陸上とどう向き合っていくのかは、まだちょっとよくわからないけど、それでもまたいつか、陸上の試合を見て、感動したり、走りたいなって思ったり、なんかそういう生活、できたらいいなって思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2度目ですが、拙い文章ををここまで読んでいただきありがとうございました。

 

 

また読み返して変なところがあったら時々手直しを入れていきます。

 

 

 

 

 

 

 

陸上で学んだことや感じたことは、間違いなく自分の中に何よりも強く残っていて、これを経験したからこの先何があっても大丈夫と言えるほど自分は強くないけど、乗り越えていける気もしています。

 

 

青春の3年間、高校生活の3年間、その6分の5を陸上に捧げて来ました。

 

いろんなことがありました。

 

 

 

 

最高でした。

 

 

 

 

 

 

陸上を始めて良かったな、と思います。

 

 

 

 

 

忘れたくないな。

 

 

 

 

 

 

 

支えてくれた、応援してくれた、ともに競い、ともに練習し、喜び合い、悲しみ合い、笑って、泣いて、走って来た、すべての人たちへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最高の愛と感謝をこめて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとう。

 

 

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